老子の言葉をわかりやすくお届けします

「最強の存在」とは?

何も持っていないようでいて、実は全てを備えている最強の存在。
みなさんは、どんな人をイメージするでしょうか?

 

老子の思想でもニーチェの思想でも、
この「最強」の存在として「赤ちゃん(赤子)」を挙げています。
確かに、赤ちゃんは、自分一人ではしゃべることも歩くこともできませんが、
ただそこに存在しているだけで周りの人間を動かす力を持っています。
また、その存在自体が、時には見ず知らずの人にさえ“希望”を与えることもあり…。

 

どんなに知識や経験を蓄えても、赤ちゃんには決して叶わない。
むしろ、積み重ねた余計な知恵がマイナスに作用することさえある。
…そのような面は多分にあるでしょう。

 

ところで、老子の思想もニーチェに思想も、
どこか「アウトロー」なイメージを抱かれる傾向があるようです。
確かに、老子は、その人自身が「世捨て人」のように語られていますし、
(実際、官職を退いて隠遁生活をしていたという説も…)
ニーチェは、その著書に出てくる主人公「ツァラトゥストラ」の印象が強すぎて、
「山にこもって思索にふける人」というイメージがついてまわります。

 

実際のところ、この二人の思想は本当に似た部分があるのでしょうか?
あるとすれば、その共通点とは!?

両者の違いをざっくりとまとめてみよう

ニーチェといえば、「神は死んだ」という言葉が有名ですね。
これは、「なんでもかんでも神様、神様で良いのか!?」
…という、キリスト教への批判・反発を含んだ言葉。
人間はもっと、自分自身に対して責任を持つべきではないのか?
自分で「この人生を選んだのだ!」と、
自らの生を引き受けられるくらいでなければ
生きている意味なんてないんじゃないの?それって「末人」だよ。
…ざっくりと解釈すると、そのような意味です。

 

言ってみれば、「こわがるな!当たって砕けろ!」
…というアツいメッセージにも取れます。
そう考えてみると、ニーチェは意外と情熱的な人だったのだとも
解釈できるかもしれません。

 

これに対して、老子は、

 

「作為的なことはなにもせず、あるがまま、自然の流れに従って生きなさい。
小賢しいことをしても、天が無作為に決めていることには逆らえない」

 

…と、「無為自然」を説きました。
ニーチェが「動」とすると、老子は「静」。
「あがいたって無駄さ」と、ちょっと離れた場所から人生を俯瞰しているような
…そんなイメージですね。

 

こうしてみると、両者の思想は全く正反対のようにも思えます。

自分の人生に責任を持て!

ただ、老子は、「大道廃れて仁義あり」という言葉からもわかるように、
形式ばった“知恵”よりも、“心”を重んじていた思想家です。
この点では、キリスト教の形式的な教えに異を唱えたニーチェと
根本的な部分が似ているとも捉えられます。

 

一方のニーチェも、
「ギリシャ哲学廃れて、形而上学、ユダヤ思想の復活あり」
と言われていた時代に、ギリシャ哲学の復活に意味を見出していたのだとか。

 

何かしら新しい物(思想や宗教)が生まれ、
それが広く民衆に受け入れられるようになるということは、
その反面、何か大事なことが忘れ去られてしまうということでもあり得ます。
老子にしてもニーチェにしても、

 

「流行りに流され続けるのではなく、
自分の頭で考えて“真理”にたどり着くことが大事なんだよ」

 

というメッセージ性があるという面は共通していますよね。
世間的な評価を意に介さなかったという点でも
両者は似ていると言えるのではないでしょうか?

 

人はついつい、便利なもの、効率が良いもの、
自分にとって都合が良いもの、ラクなもの、耳触りの良い思想に
流されてしまいがちですが、ちょっと立ち止まって、
自分自身の頭で考える。自分の価値観に照らして考える。
世間や他人のせいにしない。
…そのような真摯な「人生への向き合い方」を心掛けたいものです。