老子の言葉をわかりやすくお届けします

「上善は水の若し」がフランス人の座右の銘!?

『老子』といえば、孔子の『論語』と並ぶレベルで知名度の高い書物。
この二つは、中国が誇る「二大思想書」と言っても過言ではないでしょう。

 

しかもこの二つは、考え方が決定的に異なっている部分があります。
ですから、『論語』を読んだ人は「『老子』も読んでみようかな」と、
『論語』」を先に読んだ人は「じゃあ、『論語』ってどうなんだろう」と
合わせて“セット読み”する方も多いようですね。

 

『老子』で説かれている教えをごく簡単にまとめると、
「人間も自然の一部なのだから、自然の摂理には逆らわらず
“ありのまま”を大切にして自然な生き方をしなさいよ」
…ということ。

 

そして、その思想の根幹を成すのが、万物の根源である「道」です。
この「道」に従い、ことさらな行いや“無理”をせずに
あるがままに、自ずとそうなっていくような生き方・心の在りようを理想とする。
このような思想は、アジア圏のみならず欧米でも支持者が多いのだとか。
しかも、『論語』よりも圧倒的に知名度が高く、広く読まれているのだといいます。

 

「“上善、水の若し”が私の座右の銘です!」
…というフランス人がいるくらいポピュラーだというから驚きですね(笑)。

なぜ『老子』は欧米で人気なのか

なぜ、欧米では『論語』よりも『老子』のほうがポピュラーなのでしょうか。

 

そこにこそ、『論語』に代表される儒家思想と、
『老子』が表す道家思想の決定的な違いを見て取ることができるでしょう。

 

両者の最大の違いは、「形式」を重んじるか?それとも「心」を重んじるか。
例えば、親に対する「孝行」を例に挙げてみると、
儒家は形式的なことを非常に重要視します。
すなわち、挨拶はもちろんのこと、食事をごちそうしたり、
足しげく通って顔を見せたり、様子をうかがったり。
お盆や正月に帰省する、というのも、一つの「親孝行の“形”」ですよね。

 

これに対して道家は、「そんな形式的なことは意味がない」と批判します。
そんな形式的なことをしたところで、
そこに心がこもっていなければ、全く意味がないじゃないか!?というわけですね。

 

そもそも、わざわざ形にこだわらなければいけないのは、
人が”心“を忘れてしまったからなんじゃないか?
道に従う生き方をいれば、そんなことにはならないハズなのに…。
というのが、道家側の考え方です。

 

欧米人にしてみれば、東洋的な社会規範がメインの『論語』よりも
(人種問わず)人間が共通してもっている“根源”の部分を大切にした『老子』のほうが
フランクでなじみやすいのかもしれませんね。

 

欧米人を虜にする老子の魅力とは…

しなやかに、無理をせず、自由に生きよ。
その老子の教えは、洋の東西を問わず世界中で高く評価されています。
(もちろん賛否両論はありますが…)

 

例えば、老子思想の核を成しているともいえる次の3つの教えは
アジアだろうが欧米だろうが
人が人としてこの社会で生きていく上で考えさせられる内容です。

 

「不争」:人と争わないこと
「知足」:満足することを知ること
「回帰」:自然な姿、“原点”=道に還っていくこと

 

これらのルールを心掛けて生きていれば、
自ずと欲や怒りから自分自身を解き放つことができ、
それにより心の豊かさが得られる。
…このように老子は教えています。

 

氾濫する物や情報量にアップアップしているのは、
アジア人も欧米人も同じこと。
必死にもがき続ける日々の中で、
老子の教えによってフッと心がラクになる瞬間があるというのは、それだけ、
老子の言葉に時代や国を超えた「普遍性」があることの証ではないでしょうか。