老子の言葉をわかりやすくお届けします

『老子』の最終章で語られる教えとは

上下二篇、81章に及ぶ『老子』。
その最終章で説かれているのは、「本当の善人とは?」
そして、「本当の幸福とはどのようなものか」という、
シンプルでありながら答えを出すのが難しい疑問への答えです。

 

『老子』の最終章は、次のような対句が重ねられており、
最終的には、
飾らずにシンプルに生きることが本来の人間の在り方にふさわしい、本当に幸福につながる
…と記されています。

 

信言は美ならず、美言は信ならず。
善なる者は弁ぜず、弁ずる者は善ならず。
知る者は博からず、博き者は知らず。

 

つまり、真実を表す言葉は飾り気がなく、
美辞麗句には真実味がない。
善人は弁舌が苦手であり、弁の立つ者は本当の善人ではない。
知者は博識ではなく、博識を鼻にかける者は本当の知者とは言えない。

飾りけのない姿こそ、真実

「信言不美、美言不信」
(信言は美ならず、美言は信ならず)
実のあることばには飾りけがなく、飾られた言葉には実がない。

 

老子のこの言葉、現代を生きる私たちにも身にしみる言葉ですよね。
ともすれば私たちは、耳触りの良い言葉に流されてしまいがち。
うまい話につられ、それで失敗するケースのなんと多いことか!

 

しかし、言葉をどれだけ飾っても、
心がない言葉は人の心には響かないものです。
言葉巧みな営業マンよりも、朴訥とした話し方をする営業マンのほうが
得てして成績が良かったりするのが最たる例でしょう。
特に、中小の製造メーカーの社長には、
美しい声で美辞麗句を並べる女性営業ウーマンよりも
言葉数の少ない野暮ったい営業マンのほうが、ウケが良いようです(笑)。

 

上記は、『老子』の最終章に記された言葉であり、
人間にとっての“真の幸福”についての教えにつながるフレーズですが、
全編を通じて老子は「言葉」の重みについて繰り返し説いています。

 

飾った言葉には真実がない。
言葉数が多いのは自然な姿ではない。
寡黙こそ自然な姿であり、飾りけのない言葉の中にこそ真実がある。
…そう、老子は教え諭しています。

無知無欲、無為自然

「他人から評価されたい」「認められたい」
「人よりも一歩先へ行きたい」「誉められたい」「尊敬されたい」
…私たちは誰しも、そんな承認欲を持っているもの。
「良い・悪い」の問題ではなく、それは人として当然の姿です。

 

しかし、老子の教えによれば、
こうした欲望にとらわれていては本当の幸福を手にすることはできません。

 

無知無欲、無為自然。
知識に頼らず、自分の欲望に振り回されず、
飾らず質朴、ありのまま自然体で生きること。
それこそが、人間本来の幸福につながる生き方なのだと言うのです。

 

さらに老子は言います。
「天の道は、利して而して害せず。聖人の道は、為して而して争わず」。
天の道は万物を損なうことがなく、恩恵のみを与える。
聖人は道に従い、人と争わず、ただ人のために尽くすものだ、と…。

 

老子が理想とするようなたいそうな生き方を実現できる人は
正直、少ないかもしれません(笑)。
欲望を持たず、人のことをうらやましがったり妬んだりせず、
争いもせず、しゃべりすぎたりもせず、
ありのままの自分を「これで良いのだ」と受け入れて自然体で生きる。
…これって、結構難しいことです。

 

人は、自分と他人を比較して嫉妬したり、恨んだり、
知らないことを「知っている」と見栄を張ってしまったり、
「自分なんかダメだ」といじけたり、
ささいなことで争ったりする生き物ですから…。

 

しかし、それらをひっくるめて「自分」や「人間」を丸ごと受け入れることができた時、
人は本当の幸福に一歩近づけるのかもしれませんね。