老子の言葉をわかりやすくお届けします

人はいつか、原点に還っていくもの

本を一冊読めば、その分だけ知識の量は増えますよね。
(その分、他の知識が抜け落ちる…という方もいますが…)
何かを学べば、それだけ知識の量も、できることも増えていく。

 

言葉を話すことどころか、食事をすることも歩くこともままならない
“まっさらな”状態で生まれた赤ちゃんも、
一つ一つ学んでいくからこそ、日々、
何か新しいことができるようになっていくのです。

 

しかし、老子が理想していたのは、それとは真逆のこと。
「無知無欲」、すなわち、知識も欲もなければないほうが良い。
知識をどれだけ身に着けたところで、
それは本当の意味で人間を幸せにすることにはつながらないのだ…と。

 

確かに、どれだけ博学な人でも、人生の後半には
老化や痴呆の症状に伴って全てを忘れてしまうかもしれませんし、
どんなに財産をため込んでも、“あの世”までは持っていけません。

 

つまり、“死”を迎えるということは、
生まれた時のまっさらな状態=原点に還っていくこと
…とも考えられるわけです。

 

無知無欲の、生まれたままの状態に戻って最期を迎える。
…そう考えると、財産や知識にしがみつく生き方は
あまり意味がないようにも思えてきますよね。

減らして減らして、減らしていけ

老子が理想としていた「無知無欲」の境地。
それがよく表れているのが、次の言葉です。

 

「為学日益、為道日損」
(学を為せば日々に益し、道を為せば日々に損ず)

 

学問を修めれば日ごとに知識が増えていくが、
道を修めれば日ごとにその知識は減っていく。

 

ここで言う「道」とは、万物の根源となるもの。
目に見えるような実体はないものの、確かに存在していて、
私たちの“生”を支えている概念です。

 

老子が言うには、身に着けたものをどんどん捨てて、
どんどん無駄をそぎ落として“無”“無知無欲”の境地に至ることが
道=万物の根源と一体になることにつながるのだとか。

 

実際、一糸まとわぬ裸の状態で大自然の中の露天風呂に入ったり、
海の波に身を任せて漂ってみたりすると、

 

「あ〜、自分も自然の一部なんだな」
「なんだかもう、他のことはどうでも良いな」

 

…と、“自然との一体感”のようなものを感じることがあります。

 

みなさんも、そのような経験があるのではないでしょうか?
あの一体感こそが、老子の言う「無知無欲」に近い状態なのかもしれませんよ?

無為な人は“跡”を残さない

老子の思想は、“禅”の思想に通ずるものがありますが、
禅の世界でも、「学んだ知識や修行の跡はすっぱりと洗い流しておきなさいよ」
という教えがあります。

 

これは、「優れた人は、自分が通った“跡”を残さないものだ」
という老子の教えと同じことですよね。

 

無知無欲の境地に至るには、
「自分が、自分が!」というウザイくらいのアピールは不要。
極端な言い方をすれば、自分の存在感を消し去って、
“木”と一体化するくらいのつもりでいるくらいがちょうど良いのかもしれません。

 

…とはいえ、「いかにして自分を売り込むか」が問われる
“アピール合戦”の現代社会においては、
本当の意味で無知無欲を実践するのは非常に難しいことでしょう。

 

「まっさらな状態でいる」ということは、簡単なようでいて非常に難しい!
だからこそ、赤ちゃんという存在は偉大であり、
なににも勝るパワーを秘めているのです。