老子の言葉をわかりやすくお届けします

聖人とはどういう人か

老子は、度々、“聖人”について触れています。

 

例えば、「聖人処無為之事、行不言之教」。
道にしたがう賢者は、よけいな振る舞いをせず、
言葉に頼らない教えを行うものだ、という教えです。

 

ここで老子が「聖人」と言っているのは、道を知って道に従う賢者のこと。
老子は、「道」と一つになった人のことを「聖人」と表現しています。
「道」とは、老子の思想の中心的な位置を占めるもので、
ざっくりと言うと、万物の根源になるもの。
言葉で説明することすらできない、
形も音もない、何にも左右されないものです。

 

老子によれば、この「道」と一つになった人は、私心を持たないのだとか。
つまり、個人的な感情や私利私欲にとらわれることがないのです。
このような人物を指して、老子は「聖人」と表現しているんですね。

 

聖人は私心を持たないため、偏った考え方に固執することもありません。
これは、リーダーとしては理想的な在り方だ、と老子は評価しています。

聖人は常に無心

「聖人無常心、以百姓心為心」
(聖人は常の心無く、百姓の心を以て心と為す)

 

聖人は定まった心を持たず、人民の心を自分の心としている。
…ここでいう「百姓の心=人民の心」とは、一般の人々の気持ちを意味しています。

 

つまり、老子によれば、聖人とは一般庶民の気持ちに寄り添えるような人物
私利私欲にとらわれ、偏った物事の見方をすることはなく、常にニュートラル!
庶民の気持ちを自分自身の中にまるで鏡のように映し出し、
まるで自分の気持ちであるかのようにとらえることができるのです。

 

これは、政治家としては理想的ですよね。
少なくとも日本の場合は、なんだかんだ言っても、
政治家は経済的に庶民よりも恵まれた環境にあるわけですし、
金銭感覚も大きく違っています。
それが元で不用意な発言を繰り返し、バッシングに合う方もいるくらいですから…(苦笑)
それは、庶民の心を自分の中に映し出すことができていない証拠。
老子の言う“聖人”には、到底及びません!

 

ちなみに老子は、上記の言葉に次のように続けています。
聖人は、人民の中の善も不善も、そのまま善として受け入れるよ。
人民の中の信も不信も、そのまま信として受け入れるよ、と。

 

すなわち、聖人は、人民の悪も不誠実も含めて丸ごと受け入れて、
その結果、良いほうへとつなげていくことができる人物なのです。

どんな弱者も見捨てない!

一般的に「強い」とされているものを否定し、
「弱者」とされているものの中に“真の強さ”を見出すのが老子思想の特徴。

 

例えば、一般的には曲がった木よりもまっすぐな木のほうが重宝されますが、
老子に言わせれば、「曲則全、枉則直」。
曲がりくねって見栄えの悪い木は、
伐られることがないのでその生を全うできる…と言うのです。

 

社会的には“弱者”と呼ばれる立場にあっても
だからこそ、他人に足を引っ張られたりすることなく強くしなやかに生きていける!
ストイックに自分の道を追求し、結果的にはそれを成功につなげていくことができる。

 

…このような老子の思想は、現代の競争社会において
“弱者”とカテゴライズされている人たちに強く支持されています。

 

老子の言う“聖人”は、どんな弱者も見捨てたりはしません。
悪人だろうが、嘘つきだろうが、全てを受け入れて、
そこから“善”や“信”につなげていくことができるのです。

 

確かに、人間は、自分を否定されればますます反発したくなりますが、
自分を認めてもらえると歩み寄ろうという気持ちが湧いてくるもの。
こうった人間心理をうまく(自然に)利用できる人が、
“聖人”と呼ばれるにふさわしい人物なのでしょう。