老子の言葉をわかりやすくお届けします

「学ぶ」ことの本当の意味とは?

「頭でっかち」という言葉がありますよね
これは、読んで字のごとく、頭が大きくて身体全体のバランスが悪いこと。
知識ばかりため込んで、それを実行に移せない様子を指して、
「あまり頭でっかちになるなよ」
「頭でっかちになるよりもまずは行動に移してみたら」
…なんてアドバイスをしたりしますよね。

 

老子もまた、いわゆる「頭でっかち」な状態を戒めていました。
と言っても、学ぶこと自体を否定していたわけではありません。
知識の身に着け方、使い方を間違うなよ、ということを言いたかったようです。

 

老子によれば、本当に優れた人物というのは、
新しいことを学べば学ぶほどに「中」の状態に還っていくのだとか。
ここでいう「中」とは、言い換えれば「虚心」。
先入観もわだかまりもない、「素直」な心のことです。

 

これはすなわち、「凡人は学ぶほどに先入観にとらわれやすくなっていく」
ということの裏返しでもありますよね。
確かに、何かを知れば、その分だけ「わかったような気」になって、
実際には見ていないのに知ったかぶりをしたり、
偉そうに理論を語ってしまったり…。

 

みなさんもそんな経験があるのではないでしょうか?

ココが賢人と凡人の違い!

本当に賢い人、優れた人は、
新しい知識を得たからといってすぐさま物事の考え方を変えたりしません。
ことさらに態度を変えるわけでもないですし、
取り乱したりすることもない。
知ったかぶりをして知識をひけらかすこともありません。

 

これをよく言い表しているのが、老子の次の言葉です。

 

多聞數窮、不若守於中
(多聞なればしばしば窮す。中を守るに若かず)

 

人は知識を蓄えるほどに賢くなるが、その反面、
既存の観念に縛られ、柔軟さを失ってしまう。
しかし真の知者は、学ぶほどに中(虚心)にかえっていくものだ。

 

…学べば学ぶほどに、私たちの中には、
理論だとか、基礎だとか、世の中の常識だとかルールだとか…
様々な「縛り」が出てきてしまいます。

 

これは、時に、オリジナルの発想を生み出す力を阻害してしまう元凶!
「世の中ではこういう風に言われているから」
と、知らず知らずのうちに自分自身を制限するようになってしまいます。
これでは、奇想天外なアイデアは生まれませんよね。

 

また、例えばAさんに関するあまり好ましくない噂を耳にした時、
その情報に心ごと流されてしまうと、
Aさんに対しても妙な先入観を持って接するようになってしまいます。
その噂の真偽も定かではないといのに…。

 

どんなに新しい情報や知識を得ても、「中」であるべし。
これは、どんな立場や職業の人にも共通する理想の在り方ですね。

見たこと、聞いたことに流され過ぎないこと!

ともすれば私たちは、見たこと、聞いたことに流れ過ぎてしまいます。
昨日までは「白だ」と思っていたものも、
高名な誰かがもっともらしい理論で「黒だ」と論じているのを聞けば
「そうだな、言われてみれば黒かもしれない」と思ってしまう…。
常に、先入観もわだかまりもない「中」の状態でいるのは
実は非常に難しいだと言えるのではないでしょうか。

 

それに比べて、「天には偏りがなく、全てを同じように扱う」
と、老子は言っています。
人間だろうが犬だろうが、
賢者だろうが愚か者だろうが、
そこには「えこひいき」など一切存在しないというのです。

 

有名なAさんが言ったことだから…とか、
Bさんのほうが、Cさんよりも地位が上だから…とか、
なにかにつけて人と人を比較して態度を変える私たちとは違いますね(汗)

 

見たこと、聞いたことに流れて、大切なものを見失わないように!
常に「中」でいられるように、
時には自分自身を客観視することが大事です。