老子の言葉をわかりやすくお届けします

愛は人を狂わせる?

誰でも、人に嫌われるよりは好かれたほうが気分が良いでしょう。
子供だって、「お前なんて生まれてこなければ良かったんだ」と
ぞんざいに扱われて育てば、自尊心が低く
自分に自信を持てない人間になってしまいます。

 

しかし、過度の寵愛もまた、困ったものなんだよ、
と老子は言っています。
「寵愛」とは、“特別に”大切にしてかわいがること。
「偏愛」とちょっとニュアンスが似ているかもしれません。

 

老子によれは、「寵愛は人の心を狂わせるもの」
確かに、例えば兄弟の片方を寵愛すれば
もう一人の子供には“嫉妬”が宿りますよね。

 

会社組織でも、AさんとBさんという部下を持つ上司が、
Aさんばかりに目をかけて寵愛していれば、
Bさんに嫉妬心が生まれたり、
AさんとBさんの関係に亀裂が生じたり、
それが原因で組織全体がギクシャクしたり…。

 

しかも、なんらかの理由でAさんとBさんの立場が逆転すれば、
Aさんの心に宿る憎悪はBさん以上かもしれません。
「愛は人を狂わせる」というのは、言い得て妙なんですね。

愛は心を乱す種

寵愛を受けては得意げになって舞い上がり、
屈辱を受ければ、くやしさのあまりに憎悪を燃やす。
…このような心の動きを、老子は次のような言葉で戒めています。

 

「寵辱若驚、貴大患若身」
(寵辱は驚くが若し。
大患を貴ぶこと身の若くなればなり)

 

寵愛や屈辱に人は恐れおののくかのようだ。
それは心を乱す患いのタネを自分の身体のように
大事にしてしまうからだ。

 

…寵愛を受けては喜び、屈辱を受けては悔しがるのは、
私たちが「自分が一番かわいい生き物だから」
…と言っても過言ではないでしょう。

 

自分自身がかわいくて仕方がないから、
特別に寵愛されれば嬉しいですし、
ないがしろにされれば身悶えするほど悔しい。

 

このような状態を指して、老子は、
「心を乱す患いの種を自分の身体に宿してしまっている」
…と表現しています。

愛憎に振り回されない生き方

「好きだ」「嫌いだ」
「愛されている」「フラれた」
…そんな愛憎に振り回されてしまうのは、
自分で自分をしっかり愛することができていないからではないでしょうか。
自分という人間の価値を、理解してあげていないからなのでは?

 

誰に寵愛されようが、誰にさげすまれようが、
自分さえ自分を見失わなければ、
どんな自分でも「これが自分だ」と受け入れて愛してあげていれば、
周りの愛憎に振り回されることはないでしょう。

 

老子もまた、
「我が身を大切にしていれば、患いの種を身に宿すことはないだろう」
…と言っています。
おそらく、「身体を大事にしていれば病に侵されることはない」
ということになぞらえた表現だったのではないでしょうか

 

寵愛も屈辱も、所詮は「他人目線での評価」。
絶対的なものではありません。人の気持ちが変われば、
それと一緒に変化していく、非常に不安定な評価に過ぎないのです。
そんなものに振り回されていては、
自分の中の大切な“核”がブレてしまうのでは!?

 

フラれたり裏切られたりすれば、
自分を否定されたような気分になって落ち込んでしまうもの。
その気持ちはよくわかりますが…。
他者評価を気にする前に
まずは自分で自分を愛せる自分を目指しましょう。