世の中は“仁”では救われない
東日本大震災以降、特に「思いやり」という言葉を耳にする機会が増えています。
思いやり=「仁」をもって人に接するべし、と。
しかし、人間はその“仁”に甘え、
ともすれば見返りさえも期待してしまう生き物。
「真面目に頑張っていれば、誰かが助けてくれるのではないか」
「辛い境遇にも我慢して耐えていれば、いつか救われるのではないか」
「人に思いやりを与えれば、いつか報われるんじゃないか」
…しかし、老子は言います。
“仁”に甘えるな。仁に加担するな、と。
天地は仁ならず
「天地不仁、以万物為芻狗」
(天地は仁ならず、万物を持って芻狗と為す)
老子は言っています。「天地=自然は仁などではない」と。
ですから、「いつか神様が救ってくれる」などと考えるのは、一種の甘え。
人間の都合の良いように考えているだけなのです。
老子によれば、天地は仁などではなく、
あらゆる命も人間も、公平に“わら犬”のように扱っているだけなのだとか。
わら犬=“芻狗”とは、祈願や厄払いのために神前に供えられる
わら細工の犬のことで、犠牲(いけにえ)の代用品のようなものです。
要するに、「天地は人間だけを特別扱いしたりなんかしないゾ」ということですね。
確かに、自然の前で私たち人間は無力です。
大地震やそれに伴う津波、豪雨、干ばつ、火山の噴火…
どれひとつとっても、人間の力で食い止めることなど不可能ですよね。
これほど科学技術が進歩した現代でさえ、
天地の動きそのものを操ることはできないのです。
私たちはよく、「自然の恵み」なんて表現を使いますが、
実はそれは、大きな勘違いなのかもしれません。
天地は仁=思いやりや愛に基づいて世界を動かしているわけではなく、
ただただ“無心”に、ありのままに、動いているだけ。
そこには、私たちが期待しているような“情け”などないのでしょう。
老子はそれを、“仁”を否定することで私たちに諭しているのです。
からっぽだから公平
「天地に“仁”なんてないよ」とバッサリと一蹴した老子。
さらに彼は、
「天地はからっぽだからこそ尽きることなく万物を生み出せる」
…と教えています。
この“からっぽ”という言葉は、老子の思想を読み解く上での一つのキーワード。
老子思想の根幹となる「道=タオ」もまた、「からっぽで何もない、姿も形もないもの」。
底が分からないほど深く無限だからこそ、
偏りなく公平に世界を作り出せるのだといいます。
これは、「あれも」「これも」と欲張って多くを欲しがり、
常に満たされた状態でありたいと渇望する私たちに対する警鐘なんでしょうね。
老子から見れば、仁も情けもない“からっぽ”こそが理想的な生き方なわけです。
頑張れば報われる。天は自分を見捨てない。
…そんな風に、意識する・せざるに関わらず
“仁”をあてにして生きている私たちには、非常に厳しい思想ですよね。
しかし、自分の過去を振り返ってみれば、
最初から結果など期待せず、ただ無心に、誰にも甘えずに積み重ねてきたことは、
結果を見れば成功していることが多いような気がします。
老子の言うように、世界を支えているのは“仁”などではなく“無心”の働きなのかもしれませんね。
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