老子の言葉をわかりやすくお届けします

追求できない3つのものとは?

『老子』には、何の知識もなく読んでいると、
煙に巻かれるような、「おやっ?」と思う瞬間があります。
おそらく、老子は意図的にそのような表現方法を使っていたのでしょうが、
表現が非常に抽象的で、
「なんのこっちゃ」と首をかしげてしまう部分も多いのです。

 

例えば、次の言葉…。

 

「視之不見、名曰夷。
聽之不聞、名曰希。
搏之不得、名曰微。
此三者不可致詰。故混而爲一」

 

(これを視れども見えず、名づけて夷という。
これを聴けども聞こえず、名づけて希という。
これを搏えんとすれども得ず、名づけて微という。
この三者は致詰すべからず。故に混じて一となる。)

 

見ようとしても見えない。これを「夷」と呼ぶ。  
聞こうとしても聞こえない、これを「希」と呼ぶ。  
触ろうとしても触れない、これを「微」と呼ぶ。  
この3つは追求の仕様がない。

 

なぜならそれは全く同じものだからだ。

 

…見ようとして見えないもの、聞こうとしても聞こえないもの
つかもうとしてもつかめないもの。
これだけから普通に考えると、
「それって、“何もない”ってことなんじゃないの!?」
と思ってしまいますが…(笑)。
しかし、老子によれば、「何もない」のとは違うのです。
そこに、老子の説く「道の法則」があります。

道の「姿」とは?

「視之不見…」のフレーズがイマイチ理解できなかった方は、
次の言葉でさらに混乱することになるでしょう。
しかし、これは、老子の「道の法則」の核心に迫る
非常に意味深い言葉です。

 

「其上不t、其下不昧。
繩繩不可名、復歸於無物。
是謂無状之状、無物之象。
是爲忽恍。
迎之不見首、隨之不見其後。
執古之道、以御今之有、以知古始。
是謂道紀。」

 

(その上はあきらかならず、その下くらからず。
縄縄として名づくべからず、無物に復帰す。
これを無状の状、無物の象と謂う。
これを忽恍となす。
これを迎うれどもその首を見ず、
これにしたがえどもその後を見ず。
古の道を執りて、もって今の有を御し、もって古始を知る。
これを道紀と謂う)

 

茫漠としているが、上の方は明るくなく、下の方も暗くはない。
ただぼんやりとしていて形容の仕様がなく、形のない状態に還っている。
この姿なき形を「恍惚」という。
迎えてもその前が見えず、従ってもその後ろが見えない。 
これが昔から続く「道」の姿で、
今の「有」を支配し、これによって万物の始まりを知ることが出来る。
これを「道の法則」という。

 

…どうでしょうか?
「道」と言うと、前にも後ろにもず〜っと長〜く続いている
一本の道路を想像しますが、どうやら、老子が説いた「道の法則」は
その想像とはちょっと違っているようですね^^;

道って、要するにどんなものなの?

老子の言葉からストレートに解釈する限り、
「道」とは、目で見て確認できるものではないようです。
ですから、いわゆる「道路」のように、
「あ〜、ここまで来たんだあ。まだまだ先は長いな」
…と、来し方行く末を“見て”確認できるようなものではありません。

 

しかし、「ない」わけではなく、確かに「有る」もの。
そして、万物の「有」を支配している…。
う〜ん…と、このあたりから複雑になってきますね(笑)。

 

上に昇り行くからといって明るいわけではなく、
下に沈んで行くからといって暗いわけではない。
表現しようにも表現しようがなく、
ふたたび、形のない「無」の世界へと立ち返っていく。
…そこに確かにあるのに、しっかりとした形として確認しようがない。
いわば、「空気」のようなものなのでしょうか。

 

老子が説いた「道の法則」は、
なんでも「目に見えるもの」しか信じられなくなっている現代人には、
どうにも理解しにくいものかもしれません。
しかし、だからこそ、「目に見えない」「けれども大切なもの」に
思いを馳せみるという心の余裕が必要なのではないでしょうか。

 

時代を超えて今でもなお『老子』が多くの人の心を引き付けているのは、
そのような“無物の象”の価値に、
私たちが本当は気づいているからなのかもしれません。