「ロゴス」って何?
西洋の哲学書を読んでいると、「ロゴス」というキーワードがよく登場します。
「なんのこっちゃ?」と思う方も多いかもしれませんね^^;
ロゴスとは、「概念、意味、論理、説明、理由、理論、思想」
…と言った意味を持つ言葉。
「言語、論理、真理」の意味で使われることが多いですね。
よく、「ロジカルな説明」という表現を耳にすることがありますが、
これは、要するに「論理的に説明する」という意味ですね。
実はこの「ロゴス」という言葉、
老子の「道」に近い概念だと言われることも多いんです。
なぜかというと、もともとは、
「ロゴス=宇宙の根源的な定め」として用いられていたからです。
ちなみに、そのような考え方を提唱したのはヘラクレイトス。
当時の哲学(ギリシャ哲学)では、「宇宙の原理を解き明かすこと」
が目的として発展していたため、そのような定義に至ったのでしょう。
確かに、老子が言う「道」も、宇宙の根源を意味する言葉。
「ロゴスと共通する概念だ」と思われても不思議はないのですが…
「道」は“ロゴス”的な解釈はできない
確かに、「ロゴス」と「道」の概念は似ています。
しかし、老子の言う「道」とは、本来は言葉にすらできないもの。
名前をつけて呼ぶことすらできないほど、
実体のない曖昧なものなのです。
しごく、ぼんやりとしていてとらえどころがないもの、それが「道」なのです。
ですから、
「道はロゴスとは違う」「ロジックで説明できるものではない」
…というのが、老子思想の研究者たちの見解のようですね。
そのように考えてみると、「道」とは不思議な概念ですね。
「万物の根源」でありながら、明確な物体ではなく
ぼんやりしていてハッキリとはとらえられない…。
ぼんやりとしてとらえどころがない中に物質が存在する。
要するに、「万物の根源」とは一体いかなるものなのか
言葉にして定義することはできない。
そんなことをすること自体がおこがましい。
…そのような解釈でしょうか。
老子によれば、その「とらえどころがなくぼんやりとしている」中に、
象(かたち)があるのだとか。
そしてその中に、信(まこと)があるのです。
「道」は目に見えず、名もなきもの
老子によれば、「道」とは目に見えず、本来は名もなきもの。
あくまでも、老子が、仮の名として「道」と呼んでいたに過ぎないのです。
これに対して「ロゴス」は、言語=名に集約されるものですから、
ここから考えても道とロゴスに似て非なるものと言えます。
ややこしいですね(笑)。
しかし、老子の「道」にある「信」は、
ギリシャ哲学のロゴス的な「真理」とは一致しません。
「唯物的」なものではなく、いわば「唯心的」なもの
と言って差し支えないでしょう。
老子が繰り返し述べているように、「多言」は「道」の教えに反するもの。
ですから、ロゴス=言葉を重ねれば重ねるほど、
「道」の本質からズレていってしまうのです。
「う〜ん、わかったようで、なんだかよくわからないゾ」
という方は、素粒子のようなイメージで考えてみると
「道」の本質を捉えやすいかもしれませんね。
どちらも、肉眼では見えないけれど、確かに「ある」ものですから…。
そのような意味では、老子の思想は現代物理学の要素を多分にはらんでいると
言えるのかもしれません。
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