大いなる道に従え
老子の代表的な名言に、次の言葉があります。
「大道廃、有仁義。智慧出、有大偽」
(大道廃れて仁義あり。智慧出でて大偽あり。)
…みなさんも、一度は耳に(あるいは目に)したことがあるフレーズではないでしょうか。
これは、「真実の道が衰退して、仁義や正義をことさら強調するようになった。
智慧がはびこるようになって、大きな偽りが生まれた」という意味。
やたらに「仁義だ」「正義だ」と“押しつける”人や、
自分の知識をひけらかす人への皮肉を込めた言葉だと言われています。
「わざわざ仁義だの正義だのを強調しなければいけないのは、
人々の心にそれがない証拠だ。
本来は、それが心に備わっているのが自然なカタチ。
周りからやいのやいのと強要されなければいけないのは、
人としての“真実の道”が失われてしまったからではないか」
…老子はそのように考え、
“道”が失われつつある世の中を嘆いていた様子がうかがえますね。
儒家への痛烈な批判
老子の名言、「大道廃れて…」は、実は、
孔子をはじめとする儒家思想に対する痛烈な批判だったとも捉えられます。
なぜなら、「仁義や正義を強調している」その張本人が、
孔子ら“儒家”だったからです(笑)。
仁義や孝行、慈愛、忠義…。
儒家思想は、そのような形式的なものを重んじていました。
ちょっと乱暴な解釈かもしれませんが、
「心がこもっていないとしても、形式だけは大切にしよう」
と、そんなニュアンスを感じ取ることもできます。
これに噛みついたのが、老子です。
大切なのは、心から自然に湧き上がる感謝であり、正義であって、
それがないのに形式上だけ取り繕っても意味がない!というわけです。
確かに、わざわざ「仁義だ」「孝行だ」と言葉で教えなければいけない
というのは、人間本来の「心」が失われていることの表れなのかもしれません。
本来、家族仲がうまくいっていれば親を大切に思う気持ちは
自然に湧き上がってくるものでしょう。
ことさらに「孝行」を説かなければいけない世の中は、
人々が大事なものを失っている証拠なのでは…。
同様に、国家(や組織)が安定していれば
わざわざ仁義だの忠義だのを教え説く必要はないハズです。
思考や分別を超えた次元のもの
老子曰く、仁義だの忠義だの孝行だの…と、
上っ面な道徳観や価値観の押しつけが始まったのは、
人々が「道」を忘れてしまったからなのではないか、と。
「道=この世界の万物の根源、自然の摂理」は、
人間の思考や分別をはるかに超えた、別の次元のものです。
この「道」を忘れていなければ、
仁義や慈愛、忠義、孝行といったものは、
わざわざ他人から押し付けられなくても
自分の中から自然に湧き上がってくるはずなのです。
それがないということは、人々が“道”を見失っている証拠。
だから、大きな嘘や偽りがはびこるのだと、老子は危惧しているわけです。
次々に新しい手口の詐欺事件が発生し、
大金をだまし取られる人も少なくない現代社会もまた、
人々が「道」を見失っている状態なのかもしれませんね。
もっとも、政治家が大嘘をついて週刊誌を賑わわせるのが
日常茶飯事になっている世の中ですから(苦笑)
人を導く立場である人がそんな状態であるなら、
なおさら世の中に嘘・偽りがはびこるわけですね^^;
老子が仁を説いたのはなぜか関連ページ
- 『老子』の作者って誰?
- 「道」とはどのようなものか
- 「無為自然」という考え方
- 「和光同塵」の意味
- 「上善は水のごとし」の意味は?
- 自由な発想を大切にした老子
- 老子が勧める「からっぽ」の境地
- 余裕があるくらいがちょうど良い
- 老子に倣って”引き際”を見極めよ!
- 「無」の恩恵に目を向けよう
- 老子が説く!理想のリーダー論
- 老子が「おしゃべり」を禁じたワケ
- 老子の思想は儒家への批判?
- 個性を生かせるリーダーこそ本物!
- 笑われても「道」を貫く老子の覚悟
- 家の中でも真理は悟れる
- 老子も嫌った軽々しい約束
- 「常」を知るべし
- 老子の「道」と「ロゴス」
- 老子が説く「道の法則」とは?
- 「道」と海
- 「罰」についての老子の考え方
- 死刑の是非
- 老子の教えを実行するのは難しい?
- 老子の言う智者と学者の違いって何?
- その成功は誰のおかげ?
- 天は「善人」をえこひいきする?
- 「自分」を大切にしよう
- 良心に従って生きる
- 味気ないものこそ、栄養バツグン!