老子の言葉をわかりやすくお届けします

笑いたいやつには笑わせておけば良い

どんな世界でも、誰かが理想を説くと
「そんなの理想論じゃん!」「そんなのできるわけないよ」
…と全否定したり、一笑に付すタイプの人っていますよね。

 

否定された時にはムッとしたり、嫌〜な気分になったりしますが…。
大きな視点で考えてみると、全ての人に受け入れられるよりも
否定的な人、小ばかにして笑う人がいるくらいのほうがありがたいのかもしれません。

 

それだけ、そのアイデアがブラッシュアップされることにもつながりますからね。
最初から万人に受け入れられてしまっては、
そのアイデア自体、それ以上の発展が止まってしまうことにもなり兼ねません。
笑う人がいる、ということは、それだけその案に“伸びしろ”があるということなのでしょう。

 

老子もまた、自らが説いた「道」の思想について、
「笑う人がいるくらいでちょうど良い。笑われるくらいがいいのだ」
と言っています。

 

笑われるくらいでちょうど良い

「下士聞道、大笑之。不笑不足持為道」
(下士は道を聞いては、大いにこれを笑う。
笑わざれば、以て道と為すに足らず。)

 

つまらない人間は「道」の話を聞くと大笑いする。
笑われないようなものは「道」とする価値がない。
…老子曰く、
「優れた人は、道の話を聞くとすぐに実行しようとする。
普通の人は、半信半疑で聞いている。
つまらない人間は、ばかにして大笑いする」

 

しかし、老子は、自分の思想を笑う人間がいるという現実を
否定的に捉えていたわけではありません。
そもそも、「道」の概念が非常にわかりにくく理解されにくいものであることは
十分に自覚していたようですし、
全ての人にわかってもらおうとも思っていなかったご様子。

 

「自分の生き方についてまともに考えたこともないようなつまらない人間に
すぐに受け入れられるようなものなら、わざわざ“道”を説く必要なんてない」
…とまで思っていたようにも伺えますね(笑)。

本当に大切なことはいつか分かる

「道」の思想を説いた時、それを聞いた相手がどんな反応をするか。
老子は、これでもって、相手の「人としてのレベル」を見極めていたような節もあります。

 

「なるほど、確かに私たちは大事なことを忘れていますね。
形式に捉われ、私利私欲にまみれていきている…。
こんなんじゃダメですね。私も“道”に従う努力をします!」

 

…と前向きにとらえて自ら実践しようとする人間は、
「まあ、骨があるじゃないか」というレベル。

 

「う〜ん。なんかよくわからんないけど、言ってることは正しいような?
でも、本当にそれって正しいのかな?やっぱりよくわかんないな」

 

…と、わかったようなわからないような感じで
半信半疑な様子で聞いているのは「まあ、普通だよね」というレベル。

 

そして、

 

「そんなのただの理想じゃん。道なんてどこにあるんだよ。
バッカじゃな〜い」

 

と、笑う人間。
これは、「お前こそ、ばかばかしい生き方をしているんじゃないか」というレベルの
つまらない人間…。

 

しかし老子は、自分の思想を笑う人間をバッサリと切りすててしまうほど
料簡が狭い人間ではありませんでした。

 

「まあ、そういう人もいるさ。
そういう人だって、いつか、何が本当に大切なことかわかる日が来るだろう。
その時、いかに自分がバカバカしい生き方をしていたか気づくさ」

 

と、温かい目で寛容に受け入れていたよう。

 

確かに、老子ほどの思想家であっても、
自分の考えや価値観を人に押し付けることはできません。
さすがは、「価値観の多様性」を説いた思想家ですね!