和光同塵ってどういう意味?
「和光同塵」という四字熟語、中学の国語で習った記憶がありませんか?
成人してからも、採用試験のSPIの問題に出てきたりする言葉ですので、
「あ〜、見たことある」という方も多いのではないでしょうか。
「和光同塵」とは、簡単に言うと、「実力を隠して周りと調和すること」。
優れた才能や知恵がありながら、それをことさらアピールすることなく、
あえて“徳”を隠して俗世間と交わることです。
「俺ってスゲーだろ」的なアピールをする嫌味な人とは対照的な人物であり、
そのような人を戒める言葉でもありますよね。
「菩薩がその威光を和らげて、塵にまみれた俗世に仮の姿を現して
人々を苦から救う」という意味で使われることもあります。
実はこの「和光同塵」、老子の言葉だったということをご存知でしょうか?
全てを“塵”と一つにする
「挫其鋭、解其紛、和其光、同其塵」
(全ての鋭いものを鈍くして、もつれたものを解きほぐし、
全ての輝きを抑えてやわらげ、塵と一つになる)
鋭くとんがったものは全て鈍く“円く”し、
煩わしくこんがらがったものは、全て解きほぐして、
いたるところに舞い散る塵と一つになる。
…「和光同塵」の元になった老子のこの言葉を分かりやすく表現すると、
「刺激的なことは穏やかに、
複雑なことは単純にして世間と一つになれ。
才能や徳は、ひけらかすべきものではないし、
ギラギラと光らせるべきではないよ」…ということ。
要するに、
「偉ぶらず、おごり高ぶらず、世間様と一つになりなさいよ」というメッセージですね。
これは、荘子の「愚なるが故に道なり」にも通ずる言葉。
知恵や徳を有しながらも、あえてそれを表に出さずに
控えめに、ひっそりと輝く…そんな生き方もあるということです。
無為自然にもつながる考え方
「和光同塵」の考え方は、老子の思想の根幹である
「無為自然」の思想にも通ずるものです。
つまり、どんな出来事があっても、
自分の手柄を鼻にかけるでもなく余計な講釈をたれることもなく
功績にあぐらをかいて偉ぶるでもなく…。
ただ「あるがまま」、自然体で、
世間と交わって生きられる人こそが “賢者”=「聖人」だというのです。
この「和光同塵」「無為自然」の言葉を頭に置いて、
みなさんも身近なところを見回してみてください。
会社やプライベートでお付き合いのある人たちの中にも、
「和光同塵」を地で実現している方、いませんか?
そういう方が、どれだけいるでしょうか?
人間は誰しも、多かれ少なかれ
「自分をよく見せたい」
「他人から尊敬されたい」
「“すごいね”って言われたい」
…という気持ちを持っている生き物。
普通に考えたら「和光同塵」な生き方は結構難しいのではないかと思います。
特に、「目立ってなんぼ」の現代社会では、「自分をどうアピールするか?」、
自己プロデュース力こそ全てといった部分がありますからね。
社会のシステム自体がそうなのですから、
ガツガツした生き方を一概に「悪い」と批判することはできませんし、
そもそも「良い」「悪い」を議論するようなことでもありません。
しかし、老子の思想が今もなお根強い人気を保っているということ、
近年、再び注目され初めているということは、
「俺が」「私が」という自己アピール合戦を繰り広げる現代社会に
疑問を感じる人が増えているということのなによりの証拠ではないでしょうか。
老子のように、「道」の教えを求めて愚に徹する生き方こそ、
これからの時代に“光”を与える新しい生き方なのかもしれません。
「和光同塵」の意味関連ページ
- 『老子』の作者って誰?
- 「道」とはどのようなものか
- 「無為自然」という考え方
- 「上善は水のごとし」の意味は?
- 自由な発想を大切にした老子
- 老子が勧める「からっぽ」の境地
- 余裕があるくらいがちょうど良い
- 老子に倣って”引き際”を見極めよ!
- 「無」の恩恵に目を向けよう
- 老子が説く!理想のリーダー論
- 老子が「おしゃべり」を禁じたワケ
- 老子の思想は儒家への批判?
- 個性を生かせるリーダーこそ本物!
- 笑われても「道」を貫く老子の覚悟
- 家の中でも真理は悟れる
- 老子も嫌った軽々しい約束
- 「常」を知るべし
- 老子が仁を説いたのはなぜか
- 老子の「道」と「ロゴス」
- 老子が説く「道の法則」とは?
- 「道」と海
- 「罰」についての老子の考え方
- 死刑の是非
- 老子の教えを実行するのは難しい?
- 老子の言う智者と学者の違いって何?
- その成功は誰のおかげ?
- 天は「善人」をえこひいきする?
- 「自分」を大切にしよう
- 良心に従って生きる
- 味気ないものこそ、栄養バツグン!