老子の言葉をわかりやすくお届けします

締め付けられるほどに逃げたくなる!

人間は、締め付けがキツくなればなるほど、逃げ出したくなるもの。
子育てにおいても、会社での部下の教育においても、
「アレもダメ、コレもダメ」
「ああしなさい、こうしなさい」
…と行動を制限しているばかりでは、嫌われるだけですよ(笑)。

 

自分の行動を制限されると、「自分は信頼されていないんだな」と、
相手に対して不信感を抱くようになってしまいます。
自分を信用してくれない相手に、心開けるでしょうか?
心を開けない相手のために、「頑張ろう」という気持ちになれるでしょうか?

 

結局は、反発心を生み出すだけ。
子供は反抗的になってますます「イヤ、嫌!」とごねるようになるでしょうし、
部下はやる気をそがれて仕事そのものに対する意欲を失ってしまうでしょう。

 

ですから、人に何かを教えたり、指導したりする立場になった場合は、
相手の心や行動を押さえつけるばかりのやり方では逆効果なのです。

 

まずは、自分自身が相手を信頼することから!
「この人ならできる!」
その前向きで適度な期待感がなければ、人は応えてくれないのです。
(その期待感が大きすぎると、重いプレッシャーになってしまいますが…)

 

ところで、老子の生きた時代というのは、
どうやら相当、民衆に対する締め付けが厳しかったようですね。
住む場所にしろ、仕事にしろ、かなり不自由な時代だったことがうかがえます。

立場をわきまえた人は常に謙虚

「民不畏威、則大威至。
無狎其所居、無厭其所生。夫唯不厭、是以不厭。
是以聖人、自知不自見、自愛不自貴。故去彼取此」

 

(民、威を畏れざれば、則ち大威至る。
その居る所をせばめること無く、その生くる所を厭すること無かれ。
それ唯だ厭せず、ここを以って厭せられず。
ここを以って聖人は、自ら知りて自ら見わさず、自ら愛して自ら貴しとせず。
故に彼れを去てて此れを取る)

 

民衆が追い詰められて支配者の威光を畏れなくなる時は、恐るべき事態に至るだろう。
民衆の住む所を強制的に制限してはいけないし、
民衆が生きるための仕事を圧迫してはいけない。
そもそも、支配者が民衆を圧迫しなければ、民衆も支配者を嫌がることはない。

 

だから聖人は、自分の立場をわきまえて目立つことはしないものだ。
聖人は、自分自身を大切にはするが、偉ぶるということはしないもの。
つまり聖人は、控えめで謙虚な態度を取るものなんだよ。

 

…偉い立場にある人こそ、立場をわきまえて謙虚であれ。
そのような意味にも取れるこの言葉。
単純に、「偉ぶってると民衆はついてこないゾ〜」という戒めとも捉えられますが、
意外と奥が深いのは「自愛不自貴」という部分です。

 

これは、聖人だからといって自分をないがしろにして良いわけではない
…そんな意味にも解釈できます。
聖人=自分を犠牲にして他者に尽くすものというイメージがありますが、
聖人が聖人たるためには、自分を愛せていなければいけない!

 

なぜなら…

自分で自分を愛せていますか?

自分を愛する心、すなわち「自尊心」がなければ、
結果的には他人を愛することもできません。
なぜなら、「愛して欲しい」という不足感が他人に向いてしまうからです。
自分で自分を愛せない分、誰かに認めて欲しい!愛して欲しい!!
すなわち、他人に愛を「与える」のではなく、
常に、「受け取る」という受動的なスタンスになってしまうというわけ。

 

この「欠乏感」、「不足感」は、不満や不安を生む元凶。
その不安感を埋めようとして、自分以外の人や物に対する執着が強くなってしまうのです。

 

老子が「聖人」と呼ぶ人たちは、身の丈を知って必要以上に求めない人。
ということは、すなわち、自分自身を愛しているということになりますよね?
自分を愛せているから、心に飢えがない。
だから、欲望に支配されるということもないですし、
他人に対する執着もありません。

 

曲解かもしれませんが、他者への締め付けが強い人は、
他人に執着することで自分の心の不安や不足感を埋めているのではないでしょうか?

 

まずは、自分の心を大切に。

 

自分自身を愛することから始めてみましょう。
そうすれば、うまくいかない人間関係にも変化が表れるはずです。